Edmond Clément (テノール)
1867年5月12日パリに産まる。(現在では 1867年3月28日とされている)
1928年7月3日パリにて永眠。(現在では 1928 年2月24日、フランス・ニースで永眠とされている)
徹底的に新陳代謝の行われる RCA ビクターのカタログにクレーマンのレコードが今日も尚厳然と記載されて居るのを見出して、驚きの目を見張ったのは近頃のことであった。そのレコードは実に、この『マノン』と『イスの王』とである。
先年のことではあるが一部の人々に心の隅々まで浸透するような清らかな印象を与えて已まなかったのは、この『マノン』であった。多くのテノール歌手が歌った、同じ曲のレコードを試みにこのフランスの名歌手の歌ったものと比較してみるが良い。その高郎優雅にして、何とも言いようのない柔らかい気品を具えた彼の歌いっぷり − 美しい訓練された声、優美なスタイル、完璧な発声法は洗練されたパリジャンにして始めてよく持ち得る芸術境であったろう。
その豊かな詩味と高い香り、底光りのする美しさは到底凡百のイタリー歌手などには求め得られない高い境地であった。
然し彼は決して最初からの歌手ではなかった。元来土木の技師になる心算で、その方面を専攻したのであったが音楽に対する熱情抑え難く、遂に転向してパリ音楽院へ入学、ここで忽ち頭角を現した。卒業後直ちにオペラ・コミークに入って、1889年から1909年迄。20年間の長きに亘って洗練された芸術の妙境を示した。そしてこの間彼が初演を行った歌劇も少なくはない。
クレーマンがアメリカを始めて訪れたのは、この最後の年即ち1909年のことであった。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にファーラーの相手役として『マノン』等に出演、更にボストンに転じた。然し当時のアメリカの大衆に。彼の洗練された芸術がどれ程理解されたかは疑わしく。ニューヨークの批評家ヘンリィ・フィンクは、彼に賛辞を贈った少数の一人に過ぎなかった。
その後1913年に再びアメリカを訪問、合衆国とカナダに専ら演奏旅行を試みた。彼がビクターへ録音したのはこの時のことであって、ピアノの伴奏はラ・フォルジュが受け持った。
世界大戦勃発と共に帰国して出征、1915年傷ついて退いたが、快癒後は戦後救済の慈善音楽会等に盛んに活躍して、故国のために盡くした。そして以後は教師としても、高い地位を持して居たが、1928年パリの自宅で長逝した。
彼のフォルテは言うまでもなく、フランス歌劇とメロディにある。この二面のレコードは、彼の類い少ない見事な唱法をうががうに最も相応しいものでなくて、何であろう。