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ルイザ・テトラツィーニ | Kumamoto Gramophone
Kumamoto Gramophone

ルイザ・テトラツィーニ

Luisa Tetrazzini (ソプラノ)

1874年6月29日イタリー・フィレンツェに産まる。

1940年3月11日同地にて永眠。(現在では 1940 年4月28日、イタリア・ミラノで永眠とされている)

その混じり気のない声、助奏のフリュートと交錯して聴き分けが出来なくなる程の持った声、高音部の最も困難な装飾句をも。何の苦もなげに易々と征服してしまうその驚く可き技巧 ─ 確かにコロラトゥラのソプラノとして、彼女は今世紀初頭における第一人者であったことは、何人も否定することの出来ない事実である。彼女の前には、ガリークルチもダル・モンテも所詮はその敵であり得ない。

テトラツィーニはイタリー・フィレンツェの生まれであって、その家族は皆音楽的であった。彼女は歌手である姉の一人が教えるのを傍らから聴き覚えてしまう程であったが、然し両親はこのルイザをも歌手とすることを好まず。正式に音楽を学ぶことを許さなかったので、姉が出演する劇場へ行っては熱心に聴いて居たということである。その後彼女は両親から六ヶ月だけ音楽院に入ることを漸く許されたが、この時の教師であったリチェリーには「これは少女ではなくして、芸術家である。私には教えるものが、もうなくなってしまった」と言った程だそうである。とにかく彼女の生涯を通じて、正式の音楽教育は僅かこの六ヶ月だけであった。

丁度この頃のことである。マイエルベールの歌劇《アフリカの女》を上演するに当って、小さいな役イネツを歌う者が無かったので彼女が選ばれて出演したのがその最初の舞台であり、次いで南米に渡って「ルチア」で未曾有の成功を博した。ロンドンへはかなり遅れて、漸く1907年に同じ「ルチア」を以ってデビューしたが、その時彼女が喚起したセンセーションはまさにパッティ以来のものであったということである。翌年アメリカに渡り、大戦までこの国に留まったが、戦争中は故国に在ってフィレンツェで救済事業に専ら活躍した。1919年から翌年にかけて戦後最初のアメリカ訪問を行ったが、玲瓏として少しもむらの無い広い音域、流麗甘美な音質、その完璧な技巧はベル・カント唱法の典型として昔日の成功を繰り返した。然し彼女のレコードは大戦前、彼女の絶頂時代に作られたものが殆ど大部分を占めている。

1933年11月ロンドンで告別演奏会を催し、翌年の春更に最後の演奏家を開いて楽壇から全く引退し、故国イタリーで声楽の教授に従っていた。1921年自叙伝を公にしたが、昨1940年の春、再起不能の報を伝えられて間もなく長逝してしまった。

「ルチア」の狂乱の場面や、《ラクメ》の『鐘の歌』等を歌わして、彼女ほど驚嘆すべき技巧を示したものは一人も無かったと言っても差し支えない。然もそれらは決して単なる咽喉の芸当のみではなく、その中に温かい感情の、ほのかに聴く人の心を動かすもののあることを感ずるであろう。