(1797.1.31 – 1828.11.19)(オーストリア)
生粋のウィーン生まれの大作曲家。“ドイツ歌曲の王”と言われている。小学校長を父とし、12歳でコンヴィクトという神学校に入学、教会で歌った他、音楽教育を受けた。17歳で名作「糸を紡ぐグレートヒェン」を作曲、翌年には「野ばら」「魔王」など145曲の歌曲を書き、31歳の若さで死ぬまでの間に600曲以上の歌曲を残した。
歌曲の代表作は“3大歌曲集”と称される「美しい水車屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」のほか「ます」、「死と乙女」、「音楽に寄す」、「アヴェ・マリア」などがあげられる。
シューベルトはこのように歌曲によるドイツ歌曲の系譜における有力な主流となり、初期ドイツ・ロマン主義の確立に功績を残したが、器楽においてもその旋律の美しさと叙情性において独特の境地を開拓した。
]]>(1803.12.11 – 1869.3.8)(フランス)
自由奔放な性格を持った最もロマン派的な作曲家。医者の家に生まれたため大学では医学を学んだが、途中で音楽学校に転校し、作曲の道を歩むようになる。27歳で大作「幻想交響曲」を作曲し、まもなくローマ大賞を獲得してローマに遊学した。「幻想交響曲」は、ベートーヴェンの死後数年を経ずして書かれたにもかかわらず、全曲を一貫する「固定概念」という新しい手法を編み出したり、また膨大な楽器編成による色彩豊かで革新的な管弦楽法は、リストその他のロマン派の作曲家たちに大きな影響を与えた。
序曲『ローマの謝肉祭」、「ファウストの劫罰」、歌劇「ベンベヌート・チェリーニ」などは特に有名。ほかに「管弦楽法」という著書も有る。
]]>ビビディ・バビディ・ブー(=江利チエミ 1 盤ではビビディ・ボビディ・ブー)は、1952年5月トゥー・ヤングのB面で発売されました。デビューSP「テネシーワルツ/家へおいでよ」の次の第二弾としてのレコード発売された初々しい歌唱です。
黒人独特のビブラートが煩く感じる時もあるのですが、ソプラノには珍しい重厚感が漂います。
もはや伝説的な人物にも思えるマリアン・アンダーソンだが、1897年生まれで長命し、没したのは1993年。1935年にザルツブルクでリサイタルを催し、トスカニーニが「百年に一人の声」と絶賛したことは有名。その後合衆国で人種差別の壁を乗り越えて、メトで初めて歌った黒人歌手になったこともまた有名。どうしても黒人霊歌が有名な人だが、実際には純クラシックの分野での方が遥かに卓越していたということは、この「ます」で実感していただけるだろう。深く濡れたアルトの音色はいまだ類をみない空前のもの。
来日演奏会を機会に日本のレコード会社に録音を残した西洋の大家は結構たくさん居る。ピアノのクロイツァー、シロタ、コルトー、ギーゼキング。ヴァイオリンではブルメスター、ジンバリスト、エルマン、モギレフスキー。歌ではクララ・バット、それにチェロのマレシャル、フォイアマンなど。このエマヌエル・フォイアマンは 1933 年と 35 年に来日し、日本コロムビアにレコードを残していった。
海外演奏家による日本作品の多くの演奏の中で、モイーズとフォイアマンのものは、そのアレンジや解釈の面で、真に日本人受けする演奏である。これらは、世界に向けて発信できる芸術品に仕上がってゐる。
山田耕筰の「野薔薇」「忍路高島」と、ヴァイオリン用に編曲した「荒城の月」「からたちの花」をチェロ用に再度アレンジしたものの4曲を聴くことができる。コロムビアのスタジオでフォイアマンの録音セッションを見学していたチェリストの細井は、スタジオで初めて楽譜を渡され、さっと弾いて見せた後、「この旋律は、細かい装飾音符をうまく弾かないと曲が生きてこないね」と言って、伴奏者と2、3回合わせているうちに、すっかり日本の民謡の感じを自分のものにしてしまった一部始終を目撃している。
]]>「この道」の詩は、作詩をした北原白秋と作曲をした山田耕筰により、それぞれの思いを込めて手を加えられ変化しています。
作詩のきっかけは北原白秋の大正十四年の北海道旅行だったようです。但し、その旅行でのことを詩にしただけではないものです。
「『この道』は、当時住んでいた小田原で着想を得たもの。「あかしや」や「時計台」は、その後に札幌に行って加えたもので、詩の本体は小田原の道です」と北原白秋の長男・隆太郎が『白秋童謡館』除幕式(平成十年)で次のように話されている。
また、「道」から「丘」「白い時計台」へと現在の視点がゆっくりと高い所へ移動し、三連に来て、突然、「母さんと馬車で行ったよ」と過去が思い出される。そして最後に、一気に「あの雲」と視点が空の高みに向けられる。それまでの少年の物語が、ここで普遍性へと広がる。と川本三郎の解釈が参考になる。この少年はいまは母親と別れているのか。山田耕筰が少年時代、自営館に入るために母親と別れたように作曲を託された山田耕筰の郷愁も誘いました。
これは『からたちの花』の妹です。『からたちの花』にもました美しい綾衣を織り与えて下さい。 – 畏友白秋氏はこうした言葉を添えて、「この道」一篇の詩を私に寄せた。世の誰よりも母に愛され、世の誰よりも母に慈しまれた私は、世の誰にもまして母を思う心切である。「この道」を手にした私は、いとけなかりし日を思い、あたたかい母の手にひかれて、そぞろあるきした道を偲び、ありし日のあわい追憶に耽(ふけ)らずにはおられなかった。私は亡き母の愛に浸りながら、静かに「この道」を唄いいでた。どうか母を慕う心をつれびきとして、この小さい歌を唄ってください。・・・こう山田耕筰は、曲の発表に当たり書き綴っています。
“宮川美子=カリフォルニア州・サクラメント市に生れ同市に育つ。幼時よりピアノ及声楽を学び、夫々のコンクール及演奏会に成功。18才の時パリーに留学。 (中略) 昭和6年1月28日オペラ・コミーク座で 「お蝶夫人」 の主役をフランス語で歌い、12回さものアンコールを受けて満員の聴衆を熱狂せ、ラジオが即夜 「狂的の成功である」 と放送し、コメディア紙は 「壮大の成功」 と報じた。その当時のパリー楽壇は極度に東洋人の進出を拒否していた時代であったから異例の成功と言われ一夜にして全世界の楽壇に名声を馳せた。このとき19才であった。” (本プログラムより)
● 表紙に掲載された写真は 「昭和6年1月28日パリ・オペラ・コミーク座にて蝶々夫人の扮装」 。
]]>この歌は昭和3年から15年にかけて少なくとも12枚のレコードが出ているんです。この歌の原曲は、「The Last Rose of Summer (夏の名残りの薔薇)」という歌で、こちらの方も欧米において時代を超えて歌い続けられております。
この曲はアイルランド民謡とされていますが、作曲者は、ジョン・スティーブンソン(1761-1833)。
原曲の詞は、トマス・ムーア(1779-1852)という詩人、共にアイルランドの人です。
日本の歌詞を書いたのは、里見義(ただし)(1824-1886)。
庭の千草も むしのねも
かれてさびしく なりにけり
あゝしらぎく 嗚呼白菊
ひとりおくれて さきにけり
露にたわむや 菊の花
しもにおごるや きくの花
あゝあはれあはれ あゝ白菊
人のみさをも かくてこそ
交響曲「新世界より」や「スラブ舞曲」の作者として名高いボヘミア(現チェコスロヴァキア)の作曲家ドヴォルザーク1の数ある作品中でも「ユーモレスク」は、広く親しまれています。
「ユーモレスク」は、アメリカ滞在の3年目の夏(1894年8月)、帰国してヴィソカーの別荘で過ごしているときに書かれました。
ピアノ曲集『8つのユーモレスク』作品101の第7曲目にあたるこの曲に、ある人はこれに悲しい歌詞をつけ、また、ある者は陽気な歌にして歌いました。他の7曲は現在ではほとんど演奏されないようです。
この曲集は、ドヴォルザークがアメリカでメモしていた材料も多分に使われ、この第7曲にも、黒人音楽に使われるブルー・ノートや、5音音階への傾斜がチェコ的な音楽語法と重なり合っているそうです。
彼の素朴で温かい人柄がにじみ出た小品でしょう。
「ユーモレスク」とは言葉の意味から言えば『諧謔(かいぎゃく)=おどけ、道化、冗談、ユーモア』となりますが、音楽にこれが用いられ、特に器楽曲になった際は、単なる小品になってしまいます。
ドヴォルザークのピアノ独奏曲は、舞曲や表題を持った小曲集に収められたものなどのべ約80曲もあります。
数から言えば決して少ないとはいえませんが、このユーモレスクなどごく少数の例外を除いてはあまり親しまれていません。
その理由として、一説によると、「チェコの農村に生まれたドヴォルザークは、少年時代からヴァイオリンにはよくなじんでいたが、ピアノに親しんだのはずっと後のことで、ヴァイオリンに対して抱いたような親近感は、ピアノに対しては生涯ついにわかずじまいに終わっている、そのためかドヴォルザークのピアノ曲が、本来のピアノ的な語法と少し異質なアクセントを持っていた」とのことです。
しかし、1903年にヴァイオリンの名手、F.クライスラー(1875 – 1962)が、病気のドヴォルザークを見舞った折にこの曲を見つけ、ヴァイオリン独奏用に編曲してから、この曲が大変ポピュラーになったようです。