Kumamoto Gramophone

この道 山田耕筰

この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ
あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の枝も垂れてる

「この道」の詩は、作詩をした北原白秋と作曲をした山田耕筰により、それぞれの思いを込めて手を加えられ変化しています。

作詩のきっかけは北原白秋の大正十四年の北海道旅行だったようです。但し、その旅行でのことを詩にしただけではないものです。
「『この道』は、当時住んでいた小田原で着想を得たもの。「あかしや」や「時計台」は、その後に札幌に行って加えたもので、詩の本体は小田原の道です」と北原白秋の長男・隆太郎が『白秋童謡館』除幕式(平成十年)で次のように話されている。

また、「道」から「丘」「白い時計台」へと現在の視点がゆっくりと高い所へ移動し、三連に来て、突然、「母さんと馬車で行ったよ」と過去が思い出される。そして最後に、一気に「あの雲」と視点が空の高みに向けられる。それまでの少年の物語が、ここで普遍性へと広がる。と川本三郎の解釈が参考になる。この少年はいまは母親と別れているのか。山田耕筰が少年時代、自営館に入るために母親と別れたように作曲を託された山田耕筰の郷愁も誘いました。

これは『からたちの花』の妹です。『からたちの花』にもました美しい綾衣を織り与えて下さい。 – 畏友白秋氏はこうした言葉を添えて、「この道」一篇の詩を私に寄せた。世の誰よりも母に愛され、世の誰よりも母に慈しまれた私は、世の誰にもまして母を思う心切である。「この道」を手にした私は、いとけなかりし日を思い、あたたかい母の手にひかれて、そぞろあるきした道を偲び、ありし日のあわい追憶に耽(ふけ)らずにはおられなかった。私は亡き母の愛に浸りながら、静かに「この道」を唄いいでた。どうか母を慕う心をつれびきとして、この小さい歌を唄ってください。・・・こう山田耕筰は、曲の発表に当たり書き綴っています。

宮川美子来日歓迎音楽会
“宮川美子=カリフォルニア州・サクラメント市に生れ同市に育つ。幼時よりピアノ及声楽を学び、夫々のコンクール及演奏会に成功。18才の時パリーに留学。 (中略) 昭和6年1月28日オペラ・コミーク座で 「お蝶夫人」 の主役をフランス語で歌い、12回さものアンコールを受けて満員の聴衆を熱狂せ、ラジオが即夜 「狂的の成功である」 と放送し、コメディア紙は 「壮大の成功」 と報じた。その当時のパリー楽壇は極度に東洋人の進出を拒否していた時代であったから異例の成功と言われ一夜にして全世界の楽壇に名声を馳せた。このとき19才であった。” (本プログラムより)

● 表紙に掲載された写真は 「昭和6年1月28日パリ・オペラ・コミーク座にて蝶々夫人の扮装」 。